第6回 石松伸一 氏「救急医療の現場から」



 9月26日、サテライト講座の第六回として、聖路加国際病院救命救急センターの石松伸一氏による講演が行われました。ここでは、その一部をご紹介します。
●「地下鉄サリン事件」がもたらしたもの。
 私は、救命救急センターの医師として、地下鉄サリン事件をはじめ、さまざまな事件や災害を経験してきました。今日は、こうした経験から得られた病院での対応上の問題点や教訓についてお話したいと思います。
 11年前に起きた地下鉄サリン事件は、5000名以上が被災し、12名が亡くなるという大惨事となりました。サリンは、神経ガスの一種で有機リン系の農薬中毒と同じような症状が現れます。軽症であれば、瞳孔の収縮や鼻水、頭痛などで済みますが、重症の場合は、痙攣を起こしたり、呼吸筋が麻痺して息ができなくなり、そのまま心臓が止まってしまうこともあります。
 私が勤務する聖路加国際病院は、被害が大きかった築地駅に近かったことから、640人もの方が受診に来られました。当時、築地駅前が大変なことになっていることは、我々はまったく知りませんでした。一報が入ったのは、午前8時16分頃。東京消防庁から救急外来に患者さんを搬送する電話があり、地下鉄日比谷線の茅場町駅で爆発火災が発生した模様だと言います。爆発火災と聞いて、我々は、火傷や爆風による怪我か、場合によっては二酸化炭素を吸い込んだ患者さんが運ばれてくると思っていました。ところが、最初に自力で歩いて受診に来られた方も、救急車で運ばれてきた方も、一様に目の痛みや息苦しさを訴えます。これは、「爆発火災ではなくて、催涙ガスか何かのいたずらかな」と思っていたところ、今度は心肺停止状態の方が運ばれてきました。催涙ガスや催涙スプレーで、心臓や呼吸が止まることは考えられません。いったい何が起こっているのか、我々も頭がまっ白になりました。その後、次々に重症の患者さんが運ばれて来ました。そのため、通常の診療をすべて中止し、病院にいるスタッフ総動員で被災者の治療にあたりました。

●現場の情報をいかに早く収集するか。
 このときの問題点のひとつは、発生現場の情報が病院にまったく伝わってこなかったことです。最初の情報は、「爆発火災らしい」ということだけで、どの駅から何人患者さんが来るかも分からず、11時30分に警視庁で「原因はサリン」と発表があるまで、原因もはっきりしないまま治療にあたらなくてはなりませんでした。当時は、自治体、警察、消防、医療機関の連携がなく、警察がいろいろ調べているすぐ横にいる消防の人が、警察がどんな情報を持っているかも知らないというのが現状でした。ましてや、その両者が持っている情報を病院はまったく知り得ないわけです。何か大きな事件が起きたときには、マスコミの対応が非常に早いので、まずはテレビをつけて見ればいいのですが、当時はテレビを見て情報を得るという発想はありませんでした。あのときテレビをつけていたら、もう少し正確に状況を把握できていたかもしれません。
 現在は、救急病院間をつないでいる広域災害・救急医療情報システムがあり、どこかで災害や事件が起こった場合、被害を受けた病院は何人くらい応援がほしいか、被害を受けていない病院は、何人くらい応援に出せるかといった情報を、全国の病院にすぐに伝えられるようになりました。

●病院内の情報伝達手段を確保する。
 サリン事件当時は、病院内の情報伝達経路も未整備でした。こういう事件が起こると患者さんも職員も一斉に自分の家族と連絡を取ろうとしますから、内線電話はパンク状態で使用できません。サリンかもしれないという情報が入っても、病院の隅々まで伝えるのは、非常に時間がかかります。そこで、当時は、こういう情報がきたということを印刷物にして配りました。情報は、耳で聞くより目で見た方が記憶に残ります。口頭で伝えるだけでは、伝言ゲームのように、最初の情報と食い違う可能性が高くなります。印刷物になった情報は、第三者にも正確に伝わるのです。この方法でいちばん良かったのは、ほとんどの医師が使ったことのなかったPAMという解毒剤の使い方や注意点などが、間違いなく伝わったことです。多少時間はかかりましたが、確実な伝達方法だったと思います。
 治療法を決定するためには、原因物質の分析が非常に重要です。サリン事件では、当初、消防庁から原因物質は「アセトニトリル」と連絡がありました。結局、違っていましたが、こうした情報も、病院にとって非常に重要です。たとえ間違った情報であっても、それをもとに、今、現れている症状と合うかどうか、それが原因かどうかはこちらが判断するので、分かり得た情報は教えてほしいと思います。治療法に関しては、自衛隊中央病院と前年に松本サリン事件を経験されていた信州大学の先生から教えていただきました。経験者からの情報提供は、現場では非常にありがたいことです。
 現在は、中毒情報センターが大阪と筑波にできて、たとえば瞳孔が小さくなっている、吐いている、頭痛を訴えているという症状を伝えるだけで、「そういう症状はこういう原因が考えられます」、という情報を積極的に提供してくれるようになっています。

●二次被害を防ぐ工夫やシステム作りを。
 地下鉄サリン事件では、二次被害が出たことも問題点のひとつです。サリンのような揮発性の汚染物質が原因だった場合、患者さんの体をきれいにしないままで狭い空間に入れると、そこにいた関係ない人が二次汚染を起こすことがあります。当時、最初に患者さんが来た時に、服を脱がして、シャワーを浴びせてから病院の中に入れるという発想はなく、スタッフは手袋もしていませんでした。その結果、廊下で治療に当たったスタッフは軽症で済みましたが、仮の治療室として使っていた礼拝堂では、職員の半数近くが頭痛や瞳孔が小さくなるなどの二次被害を起こしていました。礼拝堂は窓がなく、入り口が一カ所だけで換気が悪かったのが原因です。現在は、病院でも被災した患者さんを入れる前にシャワーを浴びせたり、災害現場に行く消防や警察は、二次被害を防ぐためのさまざまな器具や資材を揃えるなど除染設備の配備が進みつつあります。

●「先入観を持たない」「自分の身は自分で守る」。
 さまざまな集団災害に関わって得られた教訓のひとつは、先入観を持つなということです。サリン事件の時の情報は、最初に爆発火災と聞いて、火傷や怪我を予想していたため混乱しましたが、もし最初の患者さんを診て何かピンとくる情報があれば、もっと早く適切な対応ができたのではないかと思います。
 二番目は、病院のスタッフに対する教訓ですが、「自分の身は自分で守れ」ということです。治療をする側の立場の人間が倒れてしまったのでは、災害医療は成り立ちません。汚染を取り除く機械も出てきましたが、高価な除染設備がなくても、知恵をしぼれば何とかなります。当院では、病室で使っているシャワーのホースを長くして救急の入り口のところに置いています。同時に何十人もの除染はできませんが、少なくとも温水シャワーを外で浴びせることはできます。
 最後に、患者さんの身元の把握も重要だと伝えておきたいと思います。元気な患者さんは、「ここにいてください」といっても、家族への連絡とか、具合が良くなれば帰るということで必ず動きます。また、ひとりの患者さんに対し、同じ医師が治療を継続できればいいのですが、大勢の医師や看護士が関与するので、情報を集約しておかなくてはいけません。マスコミに公開するためにも、身元を調べ、個人の情報をしっかり把握しておくことが必要です。実は、サリン事件の時、一カ月後に亡くなった患者さんのご両親が何度も「うちの娘が来ていませんか」と尋ねて来ましたが、我々はご両親の情報とつき合わせることができず、二日間会わせることができませんでした。これは、医療者として非常に反省しています。患者さんが来たら、早く身元を明らかにしなければいけないと思います。それは、治療上というより、社会的責任として絶対に必要なことだと思います。
 サリン事件の際の病院の様子を撮影したビデオを交え、救急医療の現場の緊迫感が実感できる講義となりました。



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