「だいじょうぶキャンペーン」危機管理学セミナー 「原子力安全に思うこと」
千葉科学大学 大学院 危機管理学研究科 長谷川 和俊 教授




 7月12日、企業や自治体、大学、地域住民が一体となって、安心・安全なまちづくりに取組む「だいじょうぶキャンペーン」の一環として、危機管理学セミナーが行われました。
 第1回目の今回は、千葉科学大学大学院危機管理学研究科教授の長谷川和俊氏を講師に迎え、「原子力安全に思うこと」をテーマにご講演いただきました。ここでは、その一部をご紹介します。
●遅れている原子力産業の安全性
 この度の東日本大震災では、我々に多大な恩恵をもたらしている電力という文明の利器が、実は原子力発電という力によって支えられていたということを痛感させられました。さらには、原子力発電所がいったん地震や津波のダメージを受けると、即座に周辺へ重大かつ深刻な危機を及ぼすことも明らかになりました。人々に命を脅かすような被害を与え、安全な生活の崩壊につながるような危険。しかもその危険は永続的に続くのです。この現実は、科学技術の発達が、我々の日々の生活を豊かにすると同時に、必ずリスクを伴うものだということを意味しています。
 私はこれまで化学安全や産業安全を専門とする立場から、原子力産業の安全にも様々な形で携わってきました。事故の調査や安全指導のために、幾度となく原子力施設へ立ち入って、現場の人たちと接してきましたが、その中で率直に感じたのは、他の化学安全に比べて原子力の安全性が非常に遅れているということです。原子力産業の現場には、安全の知識を貪欲に求め、謙虚に受け入れようという真摯な態度が見られません。そこには、「安全だから何もする必要がない」という過信があるという印象を強く受けました。
 実際、原子力関係者は「原子力安全とは、放射能に対する安全である」として、これまで他工業における安全技術を導入することに対し非常に消極的でした。しかし、今回の福島第一原子力発電所の事故を見ても、放射能に関する安全は、化学安全や機械による安全技術を取り入れないと確保できないことは明らかです。原子力産業は総合科学技術であり、原子力施設の多くは、放射性物質を取り扱う化学装置です。となれば、関係する他の分野の安全に関して情報を積極的に集め、総合的で幅広い知識と技術の導入を求めるのは当然と言うべきでしょう。これまで「原子力は安全である」とされて、多くの原子力発電所が建設されてきましたが、そもそも絶対安全や安全神話などはありません。今、原子力安全には公開性が必要です。原子力産業安全の実態に関して、細部にいたるまで広く公開し、外部から広く安全知識の導入を求めること。それが、開かれた安全技術だと思います。

●求められる自主保安の促進と安全文化の醸成
 原子力安全に関しては、これまで仕様規定から定期検査の義務や保安規定の検査、災害時の対応のマニュアル化まで、政府が安全技術の細部にまで関わり、その実施を事業者へ義務づけてきました。科学技術が未熟であった時代には、こうした安全の規制を強化することで安全性は確実に向上し成果が上がりました。しかし、科学技術が高度に発達し、日進月歩で進んでいる今日では、細部の技術にいたるまで細かく規制することは不可能です。むしろ、規制すればするほど、安全に関する自由な発想を阻害し、安全実施の自主性を喪失させることになります。欧米では、重大災害の軽減策として、事業者に対し被害の局限化対策や安全レポート、緊急計画、事故報告などの提出を厳しく義務づけていますが、今後は日本でも国家主導型の安全施策ではなく、厳格な大きな枠を当てはめ、その中で自由な対応ができるように、自由でかつ厳しい自主保安の促進を求めていくべきでしょう。
 さらには、日本独自の原子力安全文化の醸成も重要です。IAEA(国際原子力機構)は、原子力安全文化を「原子力安全の問題を最優先に払うために、組織と個人が備えるべき一連の気風や気質」と定義しています。日本はヒロシマ、長崎で原子爆弾の被害を受けた世界で唯一の国民であり、これまでは被爆国としての安全文化を構築することが求められてきました。しかし、今回の事故により、被爆国としてだけでなく、世界最大の原子力災害を起こした国としても、安全文化を醸成していかなくてはならない立場になったわけです。
 我々は放射線の危険性を正しく理解して、もっともっと怖がらなければいけない。世界中で日本国民ほど原子力や放射線が、人間にどれほど大きな被害をもたらすのかを実感した国民はいません。その経験を踏まえて国際的に発信していくことが、日本の原子力安全文化のあり方だと思います。

●危機管理には現場のリーダーシップが必要
 ここで、危機管理とリスク管理という視点から、今回の地震と福島第一原発の事故を考えてみたいと思います。危機管理は、危機が起きることがわかっているとき、危機が起きてしまったときの対策です。その場その場で臨機応変に対応し、短時間で様々な決断をすることが求められます。一方、リスク管理とは事前対策です。リスクが起きる前にいろいろなことを予測・想定して対策を立てるもので、緊迫即断の危機管理とは逆に、充分に検討吟味することが必要です。
 今回の事故直後、官邸では菅総理と海江田経済産業大臣、枝野官房長官、渡辺原子力安全委員長、東京電力の幹部らが顔をそろえ、冷却のための海水注入について協議していましたが、現場では午後7時4分から吉田所長の判断ですでに海水注入が始まっていました。会議は海水注入の実施にむけて問題点や課題を議論する流れで進み、「首相からの指示があるまで中止せよ」との要請がきて、7時25分に海水注入は中断されたと報じられました。しかし、皆さんご存知のように、中止の指示に対し、吉田所長は注水を止めることはありませんでした。なぜ海水注入を続けたのかという質問に対して、吉田所長は「あの時点では、生きるか死ぬかでした。もし止めたら死ぬかもしれないという気持ちだった」と答えています。私はまさに吉田所長は、しっかり危機管理を実行していたと思います。
 このときの首相官邸での議論には、どんな意味があったのでしょうか。危機管理の立場から言えば、菅首相は議論より先に、吉田所長に直接電話して「お前の好きなようにやれ。責任はおれがとる」というべきではなかったかと私は思っています。事故の拡大阻止のためには、最大限努力して、様々な事情を総合的に判断し対策を講じることが必要です。その判断ができるのは、現場にいて誰よりも状況がよくわかる所長です。事故時の危機管理では、現場のリーダーシップが強く求められます。だからこそ、現場のリーダーに大きな権限を与え、その責務を果たすことができる体制づくりが必要なのではないでしょうか。

●想定外とは言えないリスク管理の甘さ
 一方、リスク管理についてはどうだったでしょうか。最悪の事態を想定して様々な対策を施すことはリスク管理の基本ですが、今回の地震津波に関しては、この想定に誤りがありました。地震学者は、日本の東沖では、マグニチュード7.5〜8.0は発生するが、9は起きないとしていたのです。このような過少評価に対しては多くの人が批判していますし、学問への真摯な態度が欠けていたと言わざるを得ません。地球物理や宇宙について人間がわかっていることは、まだまだ少ないわけですから、もっと謙虚な態度で臨むべきだと思います。
 原発事故に関しても、水をかぶって送電線が破壊して電源を喪失したこと、非常用電源が冠水して使えなかったこと、ケーブルをつなぐのが手間取ったことなど、幾重にも不手際が続きました。東京電力は、すべて「想定外」だったと言っていますが、これは安全基準の未熟以外の何者でもなく、想定外では済まされません。また水素爆発についても「想定外」としていますが、どうして想定していなかったのか理由がわかりません。緊急時の水素ガスの排出に関しては、化学安全の視点から細心の注意を払って設計されるはずですが、そういう設計が行われていなかったことも、水素爆発を引き起こした原因のひとつと推測されています。また、日頃から現場で安全を推進している安全担当者が水素爆発が起きることに気付けなかったのは、現場力が未熟で、自主保安の風土がなかったからでしょう。今回の福島第一原発の事故は天災がきっかけでしたが、明らかにリスク管理の甘さが招いた人災です。
 東京電力は優れたリスク管理を実行してきたとは言い難く、さらには国家行政、原子力産業の体質、技術的にバックアップすべき学会などにも、それぞれ重大な問題が存在していたことが明らかになりました。
 今後はこれらの問題を充分議論し、改善していかなくてはなりませんが、そのための要となるのは事故調査・検証委員会の報告書です。こうした事故を防ぐために、徹底的な事故調査を行い、これまでの国内の慣習や慣例にとらわれない原子力リスク管理の規範の礎となるような創造的な報告書を作っていただくことを期待しています。



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